最後にコンサル

就職先人気ランキングがこの時期になるとよく新聞等に掲載されますが、調査媒体により人気1位企業は結構異なります。新聞等のランキングでは決して1位になりませんが、J-CADという就活生の選抜コミュニティを長年やっていて感じるのは、東大生の中では相変わらず一番人気はMcKinsey等の外資系コンサルティング会社だなあということです。

人気の理由の一つは、現在特にやりたいことはないので取り敢えず外コンに入社して若いうちに経営スキルを身につけて、そのうちやりたいことが出てきたら転職or起業しようという考えの学生が結構多いからではと推察します。

他の人と違うことをすると、リスキーだけど面白いということがよくあるので、この一般的キャリア志向の逆張りも面白いのではと思いました。具体的にはキャリアの最初にコンサルではなく、最後にコンサルをやるというキャリアです。

そのロールモデルとなる面白い人がアメリカでコンサルタントをやられている濱口秀司さんです。私も濱口さんにお会いしたことがありますが、めちゃくちゃ面白い人です。(アメリカのコンサルタントで単価が一番高いのが濱口さんだという話を聞いたことがあります。)

#このBlogの2本目に書いた記事「おもしろくする力」は濱口さんの記事に関することでした。

NewsPicksの記事には濱口さんの自分史的な記事が掲載されており、これはコンサル就活を考えている学生の常識を覆すヒントに結構なるのではと考えてます。残念ながらNewsPicksの有料会員にならないと、濱口さんの記事は読めませんが、学割プランがあり、学生の場合会費は500円/月とコーヒー1杯分なので、一月だけ有料会員になって濱口さんの記事を読むだけでも間違いなく元は取れます。(通常料金は1,850円/月なので、学割はかなりお得です)

#NewsPicksから宣伝費は一切もらっておりません。(笑)

以下紹介する記事の詳細は、NewsPicksの会員になって読んでほしいのですが、該当する記事の見つけ方は次の通りです。

まずNewPicksに入ると検索窓がありますので、そこに「濱口秀司」と入力して検索して下さい。濱口さんの記事が多数ヒットします。ソート順を公開日に設定して、公開日で該当の記事を探し出して下さい。(該当する記事の公開日とタイトルを記載していきます。)

それでは、濱口さんの面白さを以下紹介していきます。

①2017/3/22「アメリカの教育を見たくて、小学校入学を直談判」

#この記事を見つけるのは結構面倒です。まず濱口さんに関する記事の中で2017/3/24「MUJIが中国で流行し…」を選択して、その記事の最後まで行くと、一連のシリーズの中に上記「アメリカの教育を…」があり、それを選択するとやっと見れます。

濱口さんは京大工学部の2年生のときに1年留年してアメリカに行ってます。目的は、凄いと聞くアメリカの教育を自分の目で見るためです。

『インディアナ州ウェストラファイエットの小学校の校長室に行き、つたない英語で、「日本から来た。俺を小学1年に入れてくれ」と頼んだのです。

もちろん校長先生は笑う。「君は何を言っとるんだ」と。

僕は言いました。「アメリカの教育を体験したいんだ。体験するには、ファーストグレーダーから入るのがいいと思う」と。タダとは言わない。でも金はない。何か別のもので払う。じゃあ何で払うかというと、このあたりは田舎だから、日本人なんかいない。そこで異文化交流の授業を受け持つから、小学校1年に入れてくれ、と交渉したんです。

そうしたらさすがアメリカですね。「いいよ」と言われて、小学生が座る小さな机に座って、1年生の授業を受けることになりました。』

『3週間くらい通ったあと、校長に言いました。「1年はマスターしたから2年に入れてくれ」と。そこからスピードアップして、一応、最高学年の5年生まで進みました。』

『次に再び校長のところに行って「ありがとう、今度は卒業したい。オフィシャルじゃなくていいから、卒業したと一筆書いてくれ」「どうするんだそんなもの」「それを持って中学校に行く」。

中学校にそれを持って行ったら、すでに話が通っていました。中学生の校長が、「聞いた。お前入れたるわ」と言ってくれました。

結局、中学校、高校と進み、最後にパデュー大学に行って、数学と物理のコースを聴講して帰ってきました。だからアメリカの教育は全部体験しています。日本と全然違い、本当に面白かったです。』

→この行動力が凄いですね。これだけで学生時代から変人だったことがよく分かります。

#ここで言う「変人」とは、「常識とは違うことを考え出し、常識とは違うことを実行できる人」のことを指します。

②2017/7/24「22歳。マッキンゼーと迷って松下を選んだ理由」

濱口さんは、就職先の選び方も普通の学生の考え方とは違います。迷ったのはマッキンゼーと松下電工でした。

『子供のころから何かを考えて周囲を驚かすのが好きで、商品企画をやりたいと思っていました。松下電工は当時、商品品番数が22万あったんです。従業員数は1万人だったから、単純計算しても1人あたり22品番を取り扱っている。従業員数には受付のお姉さんなども含まれるから、実際は1人あたり50、それ以上の商品の責任を持って扱っている人がいるだろうと考えたんです。

そもそも松下電工は、配線から照明、キッチン、バス、床、電子部品、シェーバー、ドライヤーまで扱う、専門領域のない雑貨商みたいなものです。それだったら、化学を専攻した自分にもチャンスがあるだろうと。

実は松下電工とは別に、もう1つ気になる企業があったんです。マッキンゼーです。

一番心を引かれたのは、「若くても優秀だったら年収1000万円になる」という噂。「それだったら、欲しいクルマ買えるやんけ」と思った(笑)。

でも、そのときふと思ったんです。事業をやったことがないのに、いきなりコンサルに行ってもしょうがない、と。今では多くの学生が、新卒でマッキンゼーに行きますが、僕は自分で体験したことがないのに、語ったりアドバイスしたくないんです。僕は今でこそクルマもテクノロジーも新事業もイノベーションも語りますが、それは全て自分が体験してきたからです。

マッキンゼーには結構引かれたんですよ。「優秀だったらアメリカにあるマッキンゼーの本社にも行ける」とか聞いたし。でも「商品を生み出す実態である会社を知らずに行ったらあかんやつになるわ」と思って、結局その方向はやめました。』

→これまでマッキンゼーに内定した学生で他に迷った企業が松下電工だったのは、おそらく濱口さんだけだと思います。この辺りも変人さが出ていますね。(笑)

③2017/7/26「朝6時出勤をルール化。8割働き、2割遊ぶ」

濱口さんは1988年に松下電工に入社し最初の配属先は「住設建材開発研究所」、仕事はセメントを使った瓦の新技術開発でした。

『朝6時に会社に行くようになりました。研究所に一番近い南門が6時に開くから。そうすると6時5分には自分の机に着く。就業開始時間は9時だったから、3時間自分の時間が使えるんです。9時からはきちんと働こうと。業務時間は仕事に真剣に取り組み、業務前の3時間で自分の好きなことをやりました。これを決めてから、退社するまで一度も破ってないです。出張を除けば毎朝6時に本社の南門を通過していました。』

『その時の朝の3時間は、会社に関係することをやろうと決めました。その時間は本当に貴重で、現在も使っているコンセプトの立て方とか、戦略の立て方とか、意思決定のやり方などは、全部ここで原型ができました。

業務の中で「なんで製造投資がずれ込んだのだろう」「なんでこの瓦はこういうマーケティング方法で発売されたのだろう」「意思決定のツールがこの会社にはないのではないか」「偉い人の言ってる戦略っていったいなんだ」「優れたコンセプトってなんだ」「なんでこんなコーポレートスローガンを出したのだろう」……といった疑問が出てくると突き詰めて考えてました。

そこからいろんなツールを考えだすことができたんです。』

→学生は、大企業は下積みが長いので成長が遅いと考えがちですが、変な人はどこでも成長できるといういい事例です。

④2017/7/28「小さな記事を見つけ、すぐ行動。世界への道が開く」

濱口さんがセメントの研究者から世界有数のコンサルタントになっていく道のりがまた面白いです。

『もともと瓦の研究をしながら、上司の理解もあって、さまざまな企画会議や、技術開発の会議に出られるようになっていました。研究所だけでなく工場や事業部の会議まで。

その中で、実行部分にはさまざまな方法論があるのに、最初のコンセプトや戦略を立てるところや、意思決定については、ほとんど方法論が不在になっていると気づいたのです。勘と経験に頼るからこそ、コンセプトや戦略や意思決定のクオリティをシステマティックに上げにくい。そこで、自分はなんとしてでも、それらの方法論を作ろうと考えたんです。』

『大きく分けて、2つの力が必要だと思いました。1つはクリエイティビティの方法論、もう1つは論理的意思決定です。自由度が高い場面においては、クリエイティビティがないとアイデアが思いつかないし、せっかく思いついたアイデアも、複雑な事業環境を吟味して意思決定するにはロジックが必要。そこで、この2つに関わる方法論を探したのですが、論理的意思決定についてはスタンフォード大学が「ディシジョン・マネジメント」の研究をしていて、すぐに文献が見つかりました。問題はクリエイティビティの方で、当時は方法論がほとんどなかった。うーんと考えた結果、「そういえばデザイナーってクリエイティブって言われているよな」という発想が頭に浮かび、「デザイン」をキーワードにして探し始めました。』

『で、ちょうど研究所の隣の建屋に「本社デザイン部」があったから、そこの本棚にあった『日経デザイン』という雑誌を20冊くらい持ってきました。それらの雑誌を端からめくっていたら、「今、アメリカのデザイン会社が面白い」という内容の特集記事を見つけました。その中でIDEOとかFrog Designとか、さまざまなアメリカのデザイン・コンサルティングファームが紹介されていたのですが、小さく書かれていた「Ziba Design」という会社だけが心に刺さったんです。当時、社員数17名ぐらいの小さな会社でした。なぜかというと、Zibaは「我々は情報がないところではデザインをしない。情報化されたデザインをする」という「インフォームド・デザイン」という考え方を示していたんです。

僕が探しているクリエイティビティの方法論も、突き詰めれば情報処理の領域なので、「これは面白い」と思いました。そこで、松下電工の22万品番のカタログを一式みかん箱に詰めて、一方的にZibaの社長に送ってみたのです。1991年のことでした。』

『手紙もつけずに、箱だけ送った。そして到着した頃合いに、つたない英語で「箱、届きましたか?」と国際電話をかけた。そして「今の僕の権限では、御社とはビジネス機会はゼロだと思うけど、インフォームド・デザインという考え方はすごく面白いから、一度話を聞かせてほしい。自費ででもそちらに飛んでいくつもりだ」と説明したのです。すると、社長のソラブ(Sohrab Vossoughi氏。Ziba Design創業者)が出てきて「ちょうど来週、講演のために初めて東京にいくから、そこで会わないか?」と言ってくれた。僕は「むっちゃラッキー」と思って、有給とって自費で東京に行ったんです。』

『僕が「クリエイティビティ」と「論理的意思決定」の両方の方法論を模索していること、ディシジョン・マネジメントの手法などを話したら、「お前、面白い!」と乗ってきて、意気投合しました。最後には「今すぐにZibaに来い!」と言われました(笑)』

→この発想力と行動力は凄いですね。

#1991年といえば、まだ入社4年目です。

『でもちょうど松下電工での仕事も面白くなっていたころだったので、自主プロジェクトとしてZibaに関わり始めました。渡航費なども全部自分で払っていました。Zibaからはお金もらっていません。松下から給料をもらって、メインは松下の仕事、Zibaは自分の個人の時間でやることにしました。』

『僕は、Zibaの戦略デザイン会社としての初期の成長を支えたプロジェクトに多く関わっていたので、社長のソラブも僕のことをかなり信頼してくれて、何をやってもいい状態になっていた。実は、そのときはちょうど、松下の仕事も佳境になっていたんです。先ほどディシジョン・マネジメントをやっていたと言いましたが、これが起動した頃だったんです。

ちょうど研究所長が代わったタイミングで、新しい所長に「ディシジョン・マネジメントをやりたいので、業務時間の10%ぐらいを使ってやってもいいですか?」と直談判した。

所長は僕のことを信頼してくれていたので、「いいよ」と言ってくれて、そこから研究所の片隅の部屋を勝手に占拠して、机やパソコンを運び込んで、研究所の優秀な仲間とともにプロジェクトを開始したのです。

そこから次第に幹部の信頼を得ていって、最終的には、10億円以上の投資はこのチームの分析を経なければ役員会に出せないルールができました。当時から10億円以上の投資はたくさんあって、大忙しになり、気がつくと研究所から経営企画室に移っていました。』

『ソラブから「そろそろ来ないか」とオファーがあったんです。だから今度こそ、松下を辞めようと思って社長に言いにいったところ、「君、辞めんでもいい」と言われた。

「君たちの活躍で松下の投資案件は科学的に分析され、すでに200億円ぐらいは稼いでいる。Zibaとかいうよくわからないデザイン会社に行って、新たな方法論を自由にテストしてもいいから、それを将来の松下のために役立ててくれ」と。

「俺のポケットマネーで行かせたるわ」とまで社長に言われたので、それなら、と籍は松下に残すことにしたんです。まずは松下のアメリカの研究所に出向して、その研究所とZibaがプロジェクト契約を結び、僕がレンタルされるという契約でした。』

→キャリアは流れに乗ってできていくという好例です。結果濱口さんは籍を松下電工に置いたまま1998年からZibaでフルタイムで働き始めます。

#1998年といえば、松下電工入社11年目で、めちゃくちゃ成長が早いですね。

⑤2017/7/30「なぜ仕事をするか。「難しい問題を解きたい」だけ」

濱口さんは最終的に2005年に松下電工を退職されていますが、それに至る経緯です。

『Zibaで働き始めて2年半ぐらい経ったある日、松下から「報告に帰ってこい」という連絡があったんです。ちょうどZibaでさまざまなケースが成功していたから、日本でも少し話題になっていたようです。

帰国すると、松下の電子材料部門が苦戦していたので、僕が作り上げたコンセプト作成と戦略立案の方法を、そこで適用したいという話が出てきた。そこで2001年からは、Zibaのあるポートランドと日本を往復する生活になりました。

そうこうしているうちに松下での仕事がどんどん増え、退社する直前には、本社の戦略部長と新事業企画室の室長、アメリカ研究会社の上席副社長を兼務するわけのわからない状態になりました。しかも何か会社で複雑な問題が起きたら僕に声がかかるような流れになっていたので、自分の仕事や自主プロジェクトと同時に、常に経営層の問題解決も行っていた。多分、人の4倍の仕事をしていました。』

『いろんな部門の責任者を務めていると、自分より若い社員と一緒に仕事をすることも増えます。そこでよく「既存の枠にとらわれずに、もっとベンチャーのように考えよう」などと彼らに言うようになってて。

でもあるとき、ふと気づいたんです。ベンチャーのように考えようと言っておきながら、自分自身はベンチャーを立ち上げたことがない、と。

そのあたりから「どこかで辞めなければならない」と思うようになりました。』

『ちょうどそのころ、サイボウズを立ち上げた高須賀宣と話す機会がありました。高須賀は松下電工の後輩で、97年に独立してサイボウズを立ち上げていた。彼とは長い付き合いで、1992年に日本で最初のイントラネットを一緒に考えて立ち上げました。

で、高須賀の話を聞いていると、起業はめちゃくちゃ面白そう。高須賀も高須賀で、僕のやってるコンサルティングの内容を面白いと思ったようです。そこで「一緒に会社をやろう」という話になり、2005年に退社してアメリカで起業したんです。』

『最終的には、どうせ辞めるのだからと、松下で長年の課題だった複数の問題案件を、最後の1年で思い切って解決して、辞めました。

防弾チョッキに身を固めてアメリカの部門をリストラしたり、企業を特殊な方法で買収したりと大変でした。決して会社が嫌になって辞めたわけでなく、むしろ大好きだった。でも自分のルールのためにあえて辞めたのです。』

→この辺りは濱口さんらしいですね。

以上、最初は事業会社に入って力をつけて、最後はコンサルという濱口さんの面白い事例の紹介でした。

そういえば、私もJTを退職して2年後に「LIFE STAGE LAB」を始めましたが、その開業届けの職業欄には「コンサルティング」と記載してましたので、最初は事業会社で最後はコンサルでした。(笑)

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